「亡くなった人々が遺したデジタルデータをどう扱うか」というテーマは決して目新しいものではありません。FacebookだけでなくMixiなどでも、故人のアカウントを残そうという動きが起きていますし、有名な例では飯島愛さんのブログ『ポルノ・ホスピタル』がそのまま残され、死後もファンが集う墓標のような役割を果たしています。ただ新しい側面として指摘できるのは、これまで以上に膨大かつ私的(悪く言えば些末)なデータ、すなわち「ライフログ」的な情報がネット上に集められるようになってきている、しかも有名人だけでなく誰もがそれに参加するようになっている、という点ではないでしょうか。

そして既に多くの人々が、ネットとリアルの境界線を意識せず、ネット上の情報を自分の人格の延長線上にあるものとして捉えています。また他人の「ネット人格」も、その人のリアルな人格の一部として捉えるようになっていると言えるでしょう。そのような状況で、リアルの側にある人格が無くなってしまったとしたら、残されたネット側の人格はどのような存在として扱うべきなのか――なかなか哲学的な問いです。

以前、瀬名秀明さんが書かれた小説『エヴリブレス』をご紹介したことがあります。若干ネタバレになってしまいますが、この本でもネットとリアルの人格の境界線が無くなること、そしてリアルの側が「亡くなった」ときに起きる出来事が描かれていました。そして残されたネット人格が(発達した情報技術によって)普通の人格のように振る舞い、存在して行くという世界が展開されるのですが、そこまで技術が進まなくても、残された情報の断片だけで私たちは十分に「人格」を感じられるのではないでしょうか(『ポルノ・ホスピタル』が現在果たしている役割もその一種と言えるでしょう)。また以前、高齢者の夫婦でどちらかが先に亡くなってしまった際に、残された側の心をケアするため故人の映像や音声等を情報技術で再現するという取り組みが行われていることが報じられていましたが、同じような効果を意識して故人のネット人格を残すということが行われるかもしれません。

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